保育士講座の講師ブログ

試験によく出る!イギリスの救貧法制定から新救貧法までの流れを整理!

先日、私のtwitterアカウントにおいて
イギリスの新救貧法についての問題を出題しました。

この問題の正解はです。
院内救済の原則ではなく、劣等処遇の原則が正解です。

イギリスにおける貧民救済の始まりについては、試験でもよく出題されている重要な項目です。
今回は、社会福祉や社会的養護の淵源となったイギリスの救貧法の歴史について解説します。

 

16世紀のイギリスの社会情勢

 

当時のイギリスは海外市場を拡大させたことによって、国内の毛織物工業がさかんになっていました。

毛織物の需要が増え、原料の羊毛が高騰する中、
領主や富裕層は羊毛の生産に転換して利益を上げようとしていました。

彼らは、農民から畑や共有地だった野原を取り上げ、
その土地を柵で囲い込んで羊を飼うための牧場に転換しました。

農作業を生業としていた農民は労働の場を奪われ、
工場労働者としてロンドンなどの都市に流れ込んでいきました。

しかし、都市に移動しても生活は安定せず一部は貧困層としてスラムを形成していきました。

 

救貧法(エリザベス救貧法)の制定

 

増加する貧困層による治安の悪化を懸念したイギリス政府は、
その対応として救貧法(エリザベス救貧法)を制定しました。

救貧法は、貧民を労働能力のある貧民と労働能力のない貧民に分類し、
労働能力のある貧民と児童には労働を強制し、労働能力のない貧民は保護するというものでした。

 

新救貧法の制定

 

その後、産業革命が起こると、貧困層はさらに広がり都市が貧困層であふれかえる結果となりました。

救貧法の制定後も貧民の救済のための法律が相次いで制定されましたが、
当時のイギリス社会では、個人の幸福は自助努力によって成し遂げられるものであり、
公的救済は最小限にとどめられるべきとする考え方が強くありました。

こうした考え方が顕著にあらわれたのが、1834年に制定された新救貧法でした。

 

新救貧法による引き締め

 

新救貧法で労働能力のある貧民には、
救済の条件として救貧施設へ収容し就労させる「院内救済の原則」
救済水準を最底辺の労働者の生活水準以下の待遇とする「劣等処遇の原則」がとられました。

こうした原則がとられた背景には、
救貧サービスを最低限にすることによって貧困層がサービスを受ける意欲を削ぐ目的がありました。

 

公的救済から民間へ

 

新救貧法では貧困層は減らず、貧困問題は深刻化し街中には浮浪者が増えていくこととなりました。

貧民救済はその後、慈善組織協会(COS)
セツルメント運動といった民間の慈善運動家たちの手によって行われていくこととなります。

 

以上がイギリスにおける貧民救済の始まりについてです。
今回の記事の内容をすべておさえておく必要はありませんが、
赤字になっている部分は試験でも問われやすい箇所なので覚えておきましょう。